チラウラヤーン3号

その辺のプログラマーのチラ裏です。

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スパイ説を信じてしまうかもしれない。要は知識不足が原因なのだ。今の人は、知識をつまみ食いする人が多い。何も知らない状態から知りたいと思ったことを単体でネットで調べて。「物知りになった」と勘違いしてしまう。

子どもは勿論、大人でも「勉強なんか必要ない、Google様がいるから」と言うことを言う人がいるが、ぶつ切りの知識は、意味がない。 よく「ネット情報の信憑性」が問題になるが、林千勝に関して言えば、別に嘘はついていない。 自分に都合が良い事実だけを集めてきて組み合わせて個人的な意見を主張しているだけなのだから。 それより知識がモザイク状になることの方が問題だと思う。断片的な知識だけを得て、その周囲は想像で埋めてしまう。実はそこに、大事な情報があっても気が付かない。

緑内障患者が、視野が欠けていることに気が付かないのに似ている気がする。

「ネットで検索すれば知識を得られるのに勉強する理由がわからない」論は、もはやネット検索の品質…というか、粗製濫造コンテンツの跋扈によりノイズが著しく増大してしまった今、単純には成立しなくなってしまった。

そもそもが「辞書があれば語学は不要」というぐらいの暴論ではあった。

作業現場での一挙手一投足のたびに説明書や参考書を繰りながら作業するわけにはいかない。

「正誤入り乱れた情報をどうやって精査、担保するのか?」という問いへの回答が用意できない限りは「系統的で質の良い知識、思考様式」を得るための学習の重要性は変わらない。

たとえその訓練が少量だったとしても、継続される限りは生活と人生から幾ばくかの危険を軽減できる。

ただし 「達人になるのを待ってから戦場に出るつもりか?気の長え話だな」とまでいかない程度には、適宜いまの立ち位置を振り返る必要はあるかとは思う。

入れて、使って、変えて。

月並みな話だけど、陰謀論をエンタメ消費している友人の投稿を見て改めて言葉にしておきたいと思った。

地元の田舎で年上の人たちが言う「おー生きとったかいねー。死んだんかと思っとったわー笑」が結構好き。

辛気臭くない。死が身近にある。いつでも死ぬよね私たちはよ、という文化なのかな。

「学校ではもっと社会で役に立つことを教えるべき」論についてもっと考えたい。

quoraを見るだけでも、そのテーマへの反論は多数あり、どれも理解はできる。

しかし、それって本当に色々試してみたうちに最適化された結果なのか?比較検討して選択した結果なのか、結論ありきでこうなっていて、随時改訂をしているが交絡が多すぎてうまく評価できていない状況なのか知る術はあるのだろうか。

文章の読み書き、聞き取りとスピーチ、論理的思考、コミュニケーション形成、科学的手法、マネジメント、社会構成要素の俯瞰、資産形成、人生設計の一般的ガイドライン、公衆衛生など、現在中等教育で教えられているものよりファンダメンタルなものはある気がするけど、今のカリキュラムはどのような意図で設計されているのか知りたい。

現在のカリキュラムは極端に言えば、小さい頃からやらせるにはアカデミック過ぎる気がする。教養主義的。例えば二酸化炭素吸収マシンの「ひやっしー」。レアケースではあるけど、科学的成果としてもてはやされている商品が実際には誇大広告だったりしてて、それはカリキュラムがその狙いとうまく接続されていないことを表す一端にも思える。

例えば数学。脳が成熟し切る前に形式的訓練を行うことで認知処理能力を増大させておく、という点で意味があるかも知れないけど、それは学習形式やセルフマネジメントを知ってから取り組み始めるのではダメなんだろうか?何が致命的な遅れをもたらすのだろう?

というようなことに興味があるので、いつか教育学を学んでみたいが、それよりも優先したいことも多々あり、死ぬまでにできるかわからない。

例に漏れず、こんな素人が考えることなんかとっくの昔に検討済みだとは思う。

寿命が200年間あればいいのにな。

「(仕事のレベルと) 学歴は関係ないよね」って人が言う時、それを言われた人が何に習熟しようとしてきたか、それが専攻領域とどれだけ合致してるかを無視してることが多い気がした。

そういう批判の仕方をしている人に、批判されてる人が専攻してきたことを入門編だけでもさせてみたら多分、似たようなこと言われる気がする。
(職人歴は関係ないよね、みたいな)

例えば、ある職人の世界で世界一を取った人とて、不向きなことはあるんだろうと思う。 どうしても短歌を作るのが好きになれない、とか、工作機械を設計するために顧客折衝してニーズを探り出すのが苦手だ、とか。例えその道で何年かやってみたとて。

あれ?結局「難関資格突破実績は、全ての職能への適正を保証するわけではない」という意味では同じことか。

でももうちょっと言い方を丸くしてもいいんじゃないかなーと思う。その人の努力を否定するみたいじゃん。

マッチョな人に中距離走らせて「筋肉があるからって体力があるわけじゃないんだな」みたいな発言を見たら気分良くないじゃない。 「それはそうかも知れんけど、お前は俺と同じ努力ができるのか?」って。

「その道その道で、適正と必要な訓練量が違ってくるんだねえ」ぐらいの言い方に留めたらいいと思いました。

相手の道程を否定する必要なんかない。

1日のうち、1/3を楽しむために1/3は働かなきゃいけなくて、1/3は眠らなきゃいけない。

逆に言えば、楽しめる量は働いた量に依存するってこと?少なくとも、同じぐらい?

「何が楽しくて回ってるの?」と星に問うようなものか。

虫も単細胞生物も働いた後は楽しめてる?いや、休息と逃避行動で埋まってるんじゃないのか?いや、それだとシステムが固まりすぎるから、やっぱり忙中閑あり閑中忙ありでやってるだろうと思う。 淘汰されながらも、その僅かな遊びを積み上げて進化して、願いと思考を手に入れて、それでもやっぱり24時間の幸せは手に入らないんだけど、24時間の幸せは熱的死そのものだから、幸せになれないことを宿命づけられたのが生き物というか、星として生きる者たちの定めなんだろう。

積ん読って素晴らしい。

世界地図に空白地帯が見つからないこの時代でも、
AIがなんでもやってくれるんじゃないかと期待が膨らむこの時代にも、
家の中で手を伸ばせばそこにある未知に触れられるんだぜ。

手が届く未知のストックだ。
豊か豊かでしょうがない。

ワクワクを袋に詰めてるようなものだ。

そう考えると、図書館や本屋に行くとワクワクして仕方ない理由も理解できるな。