チラウラヤーン3号

その辺のプログラマーのチラ裏です。

地元の田舎で年上の人たちが言う「おー生きとったかいねー。死んだんかと思っとったわー笑」が結構好き。

辛気臭くない。死が身近にある。いつでも死ぬよね私たちはよ、という文化なのかな。

「学校ではもっと社会で役に立つことを教えるべき」論についてもっと考えたい。

quoraを見るだけでも、そのテーマへの反論は多数あり、どれも理解はできる。

しかし、それって本当に色々試してみたうちに最適化された結果なのか?比較検討して選択した結果なのか、結論ありきでこうなっていて、随時改訂をしているが交絡が多すぎてうまく評価できていない状況なのか知る術はあるのだろうか。

文章の読み書き、聞き取りとスピーチ、論理的思考、コミュニケーション形成、科学的手法、マネジメント、社会構成要素の俯瞰、資産形成、人生設計の一般的ガイドライン、公衆衛生など、現在中等教育で教えられているものよりファンダメンタルなものはある気がするけど、今のカリキュラムはどのような意図で設計されているのか知りたい。

現在のカリキュラムは極端に言えば、小さい頃からやらせるにはアカデミック過ぎる気がする。教養主義的。例えば二酸化炭素吸収マシンの「ひやっしー」。レアケースではあるけど、科学的成果としてもてはやされている商品が実際には誇大広告だったりしてて、それはカリキュラムがその狙いとうまく接続されていないことを表す一端にも思える。

例えば数学。脳が成熟し切る前に形式的訓練を行うことで認知処理能力を増大させておく、という点で意味があるかも知れないけど、それは学習形式やセルフマネジメントを知ってから取り組み始めるのではダメなんだろうか?何が致命的な遅れをもたらすのだろう?

というようなことに興味があるので、いつか教育学を学んでみたいが、それよりも優先したいことも多々あり、死ぬまでにできるかわからない。

例に漏れず、こんな素人が考えることなんかとっくの昔に検討済みだとは思う。

寿命が200年間あればいいのにな。

「(仕事のレベルと) 学歴は関係ないよね」って人が言う時、それを言われた人が何に習熟しようとしてきたか、それが専攻領域とどれだけ合致してるかを無視してることが多い気がした。

そういう批判の仕方をしている人に、批判されてる人が専攻してきたことを入門編だけでもさせてみたら多分、似たようなこと言われる気がする。
(職人歴は関係ないよね、みたいな)

例えば、ある職人の世界で世界一を取った人とて、不向きなことはあるんだろうと思う。 どうしても短歌を作るのが好きになれない、とか、工作機械を設計するために顧客折衝してニーズを探り出すのが苦手だ、とか。例えその道で何年かやってみたとて。

あれ?結局「難関資格突破実績は、全ての職能への適正を保証するわけではない」という意味では同じことか。

でももうちょっと言い方を丸くしてもいいんじゃないかなーと思う。その人の努力を否定するみたいじゃん。

マッチョな人に中距離走らせて「筋肉があるからって体力があるわけじゃないんだな」みたいな発言を見たら気分良くないじゃない。 「それはそうかも知れんけど、お前は俺と同じ努力ができるのか?」って。

「その道その道で、適正と必要な訓練量が違ってくるんだねえ」ぐらいの言い方に留めたらいいと思いました。

相手の道程を否定する必要なんかない。

1日のうち、1/3を楽しむために1/3は働かなきゃいけなくて、1/3は眠らなきゃいけない。

逆に言えば、楽しめる量は働いた量に依存するってこと?少なくとも、同じぐらい?

「何が楽しくて回ってるの?」と星に問うようなものか。

虫も単細胞生物も働いた後は楽しめてる?いや、休息と逃避行動で埋まってるんじゃないのか?いや、それだとシステムが固まりすぎるから、やっぱり忙中閑あり閑中忙ありでやってるだろうと思う。 淘汰されながらも、その僅かな遊びを積み上げて進化して、願いと思考を手に入れて、それでもやっぱり24時間の幸せは手に入らないんだけど、24時間の幸せは熱的死そのものだから、幸せになれないことを宿命づけられたのが生き物というか、星として生きる者たちの定めなんだろう。

積ん読って素晴らしい。

世界地図に空白地帯が見つからないこの時代でも、
AIがなんでもやってくれるんじゃないかと期待が膨らむこの時代にも、
家の中で手を伸ばせばそこにある未知に触れられるんだぜ。

手が届く未知のストックだ。
豊か豊かでしょうがない。

ワクワクを袋に詰めてるようなものだ。

そう考えると、図書館や本屋に行くとワクワクして仕方ない理由も理解できるな。

ここにはミサイルも銃弾も飛んでこないから、 クソみたいな国だと思ってたけど、本当はキラキラと輝いてるのかもしれない。 もちろん、全部がそうではないのだけど。 誰かが必死に頑張ってくれてるおかげで、今日も安心して眠られる。

美術館へ行ったときは、ほんとうは床に寝転がったり壁をよじ登って体を張り付けたりして、美しいものを収めるこの大きな体と一体化したいといつも思う。