今や「忖度」は悪い意味の印象を持つようになったというのに「空気を読むこと」「空気を読める人」はまだまだよいスキル/人だとされている。
会話の文脈を読み解き、周囲が好ましいと思うだろうことをトピックに合わせて発言して、好ましく思われないことは言わない方が会話の花が咲くという評価観がそこにある。好ましく思われない発言の内容にたとえ正当性があったとしても、一聴一考の価値があるとは認められない。
例えば、陰謀論で盛り上がっている集団の中で、メタアナリシスや再現性の危機の話を持ち出しても誰からも反応をもらえないことがある。盛り上がりに水を差す行為だからだ。
そのような性質から、盲目的な盛り上がり主義=パリピ主義は一定層から嫌われ、警戒される。
しかしながら、全く文脈はずれのことばかりを発言していてもそれはそれでノイズ性が高くて会話の邪魔になってしまう。会話においてはトピックごとに深化が行われて、そのためには会話内容の収束を前提とした軸のある発言を積み重ねることが知的欲求を満たすため、発散的な発言ばかりしていると深化が不十分なまま停滞するからだ。
それとは別に、自分の知識が不十分であるがゆえに、または会話の主題が理解できてないがゆえに、自分の発言が文脈外れでノイズにしかなっていないのではないか、という恐怖が発言意欲を妨げることもある。
つまり、会話に乗りすぎても乗らなすぎても入らなすぎても建設的ではなくなる。では、どう振る舞えばよいのだろうか。
的を据えて、的を目掛けて石を投げて、外れた場合に何が悪かったのかを振り返り、それを修正する、その繰り返す方法はどうだろう。当たったときは、なぜ当たったかをその試行単独で判断するのは難しいので、外れた場合との違いと比較する。
当て方の参考に、書籍や熟練者の振る舞いを参考にしたり、熟練者にコツを言語化してもらうのもよいだろう。
会話をホワイトボードや撮影、録音機器などで記録管理し、会話がある程度収束した後に、感想戦よろしく、その内容の良し悪しを検証できないものか。そういうことが日常的にできるデバイスの開発はできないものか。そういうことが日常的にできるコミュニティを形成するにはどうしたらいいだろうか。