押井守は他人の作品を私物化するよね、と思っていたけど、カリオストロの城での宮崎駿も考えてみればそうだった。 いや、監督よりもむしろ、それらの作品を称賛する取り巻きに違和感を覚えるのかもしれない。 宮崎ルパンにはモンキー・パンチが描く大人の男の下品さと色気がない。クラリスの造形からして、全体のフォーマットは姫と王子の物語の形になっていて、それはつまり、テーマとしての子供の楽しめるアニメーションだった。
対して、高畑勲は老成した演出をするため、宮崎駿はその違いに憧れていたのではないか。 そう考えると、追い求めても追いつけず、しかし一生その境地を追い続ける姿勢は美しいと思う。ずっと情熱的でいられるから。 子供と大人の違いを強烈に胸に刻み込み、その傷を絵にしている。
宮崎駿の中には常に喪失感と欠乏感と優しさへの希望、裏切りへの失望と回復、再生が渦巻いている。 その渦は、高畑勲の蒔いた種の重力がもたらしていた。
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