「あなたのために言っている」がクソという言説は本当だろうか。
今思い返すに、あの頃、ああでも言われなきゃ、他人の心情にまったく配慮できない傍迷惑なやつとして今も疎まれていたのではないか。もちろん、今が100%そうなっていないと言い張るつもりもないが。
「あなたのために」という言葉そのものは言ったこともないし、言われたこともないが、放置したい気持ちを抑えて、そのような意図を持った忠告をあえてしたことはある。そして、私もそうされてきたのだろうと思った。
私はバカなので「痛い目を見ないと気づかないでしょ」と放置されたところで、痛い目を見ても自力で気付けないことが多い。この世は理不尽だし、毎回、自分の側が悪いことばかりではないと思っている人間に、我が身を振り返って整合性のある論理を見つけることは難しい。私と同じように、論理的に自分を顧みることができない人は少なくないのではないだろうか。
関わりの濃い人間にかけてもらう言葉には、それなりに正当性のある客観的評価が含まれていることもあると思うのだ。関わりの薄い人間に疎まれたところで「こちらのことを何も知らんくせに」としかならない。
ただし、聞き入れるに値する忠告は、本当に自分のことを思ってくれている人からのものに限られる。「あなたのために、という体をとっているが、結局は自分のために言っていることは理解している。自分が働きやすくなりたいだけだ」と自認している人は信用できた。信用できなかった人は、どこかで考え方の筋道がおかしかった気がする。
まとめると、他人の忠告の中には一聴の価値があるものとないものが混ざっているけど、なんとかより分けて、自分のためになりそうな話は聞き入れたほうがいいんだろうね、と言う話。
自分がそれをできているとはいわないけども、聞こえの良い単純な類型化に流されすぎないようにしたい。
忠言耳に逆らう。