チラウラヤーン3号

その辺のプログラマーのチラ裏です。

村上隆の『HIROPON』と『My Lonsome Cowboy』のよさについて語りたいのだけどうまく言語化できないのがもどかしい。 アートが好きで詳しい人からは「なぜそんな値段がついているのか理解できないし、下品」、オタクの王を名乗る人からは「顔がバタくさい」などと批判されていて、いや、そんなストレートに受け取ってストレートに批判するような作品なんだっけこれは?という思いをずっと持ち続けている。BSマンガ夜話宮崎駿作品解説などであれだけ作品の行間を語れる岡田斗司夫が、そんな風にしか見てないことには大いに驚いた。

そもそもがサブカルチャーの中でも、外の人間から見れば蔑視や嘲笑の対象になりがちだった当時のアニメ界隈の空気と、界隈が魅了されたオタクアニメ表現のポップさと、そこに同じサブカルの領域ではあるもののごく一部で展開されコアな人たちの特異性を形成していた非日常的な開放性を伴ったエロス (かつてドイツで開催されていたラブパレード的な開放性) を組み合わせることで「人を笑うものはいつか笑われる立場に落ちるし、制約を取り払ってさえしまえば、その脅威はすぐ隣にやってくることをお前らはわかってない」とアンチアニメ勢とアニメオタク勢両方にぶつけた石なんだと思ってた。

単純に造形だけとってもよくできている。顔がアニメ絵として魅力が足りないと言われるのはわかる。だってそういう方向 (当時のアニメ界隈でウケてた造形。誇張された頬、目の大きさなどいわゆる「萌え」的表現) にワザと寄せてないでしょ?それをやっちゃうと意味がない。ただのオリジナルアニメキャラでしかなくなっちゃう。ベースはアニメ表現においたけど、プロポーションやポーズ、像の持つダイナミズムやムーブメントの造形の思想としては割と芸術の原理原則に則った狙った洗練だと感じていた。あの構図にしたって、よほど画力や振り切りがないと出せなくないですか?液体をああいう重力感で演出するのってアニメ的ではあるんだけど、あれをそのまま造形してたアニメや漫画はないんじゃないだろうか。ありそうで、ない。そういう意味ではあれもちゃんと「見たことのないもの」を描いてくれている。

作品のシニカルさやカリカチュアの側面を汲み取らずに批判するのって、ソーカル論文やデュシャンの泉を賞賛した人たちとなにも変わらないのでは?という気がしている。なんていうか、ガキ使のオープニング企画 (守銭奴板尾や理不尽な先輩としてのダウンタウンなど) を見て真に受けて苦情を入れてしまう人を見ているような気分になるのだけど、うーん。

ああ、やっぱりうまく言えない。

もちろん、村上隆本人にそんなつもりがなく、当時のアニメオタク界隈を魅了していた本物のプロフェッショナルが描くコアイメージの劣化表現しか造形できなかった可能性もあるし、扇情的な表現を使ったただの金稼ぎだった可能性もある。村上隆の著作を読んだことないので偉そうなことが言えない。こたつ記事です。

なにより、自分だってたいしてハイアートや同時代的なコンテキストに詳しくないし勉強もしてないので、以上に述べたことは本当に根拠がない管見にすぎないのだけども...。

ちなみに同氏のDOB君やパンダみたいなキャラクターについては凄さがよくわかりません。 3m Girlについても同様。なので村上隆作品の全てがすごいと思っているわけじゃないです。

ついでに書いておきたいのがあって、 じゃあ、ろくでなし子のボートやエロイラストも芸術なんですか?みたいな意見があるけど、 それについては芸術のいくつかある評価観点を考えてみればいいと思う。 新規性、独創性、歴史的意義、思想の体現、特異的なコンテキストの抽出、技巧、大きさ、精巧さなどなどいくらかある評価軸のうち、2つ以上の点で優れているか、一点であっても卓越しているかどうか。

例えば新規性があっても技巧がショボいと評価も低くなる。その場合、新規性がよほど高くないと傑出した作品であるという評価はされない。

「羽のついた緑色のトースターを一千個海に浮かべました」みたいなのは新規性があっても、他にも思いつく人いそうという点で独創的とは言い難いし、技巧性も弱い。そして、その表現が我々に対してどう開いているのかという解釈性も乏しい。つまり、作品が外に与える情報が少ないし、人間の認知能力への刺激も弱いと言う点で有益性が低い。