生きててよかった。
酔っ払いエビが美味かった。
r.gnavi.co.jppがkに聞こえるってことは、イヌやネコが名前を呼ばれたときみたいに、モーラ、高低、アクセント、リズムが合ってれば発音が違っててもパターンマッチしちゃうってことかー。 逆にいえば、外国語を話すときに大事なのは、やっぱりこれかー。
スピッツの『プール』を聴いた。
スピッツ聴いたの多分、2ヶ月ぶりとかだと思うんですけど、やっぱり映像喚起力すごい。 そりゃみんなして歌詞の独自解釈書きたくなるよ。「聞いて聞いて、これ、こんな意味だと思うんよー」と誰かに言いたくなるのもわかります…。
70〜90年代のSF漫画には荒廃した未来の地球、例えば砂漠化、倒壊して荒れたビル、閉塞的な空間とコミュニティで暮らす宇宙移民や、人の命の軽さなどが描かれたものがあって、それなりにリアリティをもって受け止めていた感があるんだけど、そういう空気感のある作品は2010年以降はあまり見かけないような気がした。単純に言えば、あの時の暗澹とした陰鬱さが薄れた。
描かれてもリアリティがないから?
身近な恐怖というのが、隣国の動向や、仕事由来の疾病や、親子関係、タイムラインで流れてくる危険な動画に移行してしまったから?
以前は環境問題が声高に叫ばれていて、石油の枯渇や温暖化、奇形的な進化、人類の住環境としての地球の終わりなどが身近な恐怖として存在していたけど、努力してこられた人類のみなさまのおかげで、20xx年に荒廃した未来が訪れることはリアリティを失ったように思う。
それと同時に、その恐怖に掻き立てられることで創造されたストーリーたちはその芽が枯れた。もしもしたら、MMRのネタにされていた怪奇ブームの話題も同根だったのかも知れない。
貧困問題は今も続いているけど、昭和枯れすすきが過去の唄になったのと同じようなことが文芸でも起こった、みたいな。今も「物質文明は早晩終わりを迎えて、これからは精神的文化を重んじる世界へシフトする!」みたいなテーマの作品はあるのかな。
スマートフォンの普及でかなりの人口がネットへ常時接続している状況がもたらした恩恵。
でも疑似科学、エセ医療、スピリチュアル、マルチ商法、反ワクチンなどは全然オワコンにならないんだよなあ。。。って、いや、それこそが現代版のオカルティックなエンタメか?
恐怖とエンタメは表裏一体だったんだ、たぶん。超常現象や怪奇ブームは、人生の低迷を打破する契機を暗黙のうちに期待させ「こんな俺でもいつかは…!」のホームランを夢見させる原型にもなっていて、その表象の一つが反ワクチン的なものとも言えるような、そんな気がする。
別に自分も、コロナワクチンと副反応被害の全てに因果関係がないとは思っていなくて、評価がとても難しいからそう見解づける他ないのだと思う。おそらく、実験室的な再現の試みが進んでいけば、因果関係も判明してきて、むしろ安全性を高めることにつながると思っている。
なんの話だっけ。生活が安全になればなるほど、エンタメが持ち得る刺激も減っていって、私たちは退屈の袋小路に迷い込むんじゃないか、みたいな荒唐無稽な話だっけ。
まー、心配しなくてもそんな単純にコトは進まないだろうから、安心して生活に潜む恐怖を楽しんでいければと思いました。まだまだ未解決の問題はたくさんある。人類の歴史が閉じるまで。それまでは、私たちの恐怖は終わらなくて、だからこそ、エンタメも尽きるコトはない。
はー、今年か来年には結婚したいぞ…。
近況報告や日頃の感謝を伝える手段が常時接続になっている現代、あけおめは節目を刻み祈りを捧げる契機としての機能が大きくなり、同期的共感コンテンツの一つに成り下がってしまったのか…?
体育の時間に行われたサッカーを始めるとするメジャーな球技。体育教師に「教えられたことがない」と語るブクマカは少なくないが、考えてみれば、あの時間に、うまくそれらのスポーツをやってのけたヤツらも存在していたという事実はなんなのか。
なんか、とても優れた人たちに思える。
自分に足りなかったのは、教えられなくてもその場で制約を学びとっていく野蛮さと、制限されていないことには最大限の可能性でもって圧倒していく勝ち気だったのかも知れない。
聞き分けの良い子でありながらも、野生の学習力でサバイブできる子が育まれる要因には遺伝子以外に環境的要因もあると信じたいが、あるとしたらそれは何なのだろうか?
明けましておめでとうございます。国の外では年を跨いでも戦争や脅威は続いてしまったけれども、自分なりの形で平和の欠片でありたいと願う元日であります。