チラウラヤーン3号

その辺のプログラマーのチラ裏です。

小学校4年生ぐらいのとき、スズメバチに頭と体をブッスブス刺された。「あれ、思ってたより痛くない…痛いけど。でもこんな一気にいっぱい刺されるの気持ち悪いな…痛いし」→いっぱい泣いとこう!みたいな感じでわんわん泣いた。

自分は成長が遅かったようにも思うが、3〜9歳ぐらいの頃って、泣いた方がいいかどうか考えてから泣くことがあったよね。痛いとか悲しいとかじゃなくて。なんというか、アラートを挙げる意味で。

アラート…。生命の維持のための…。

そういえばQuoraで「どうして女性は行為中に喘ぎ声をあげるのですか?」という質問があり、一つの説としてこういう話が回答にあった。

  • ヒトはもともと乱婚であった
  • オスのペニスにはカエシが付いている。
  • 他のオスの精子が膣中に残っていても、それを掻き出し、他者の精子と競争する
  • 行為中は無防備になるが、群れで生きる種なので種の維持のために周りのオスに協力をあおぐようシグナルを出していた
  • その名残が喘ぎ声

jp.quora.com

なお、受精においては「一番乗りが勝つというわけでもない」という報告があるようです。

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よくこんな仕組み考え出したなあ、細胞たちよ、と感心する。

いや、「考える」って行為は、こういう、無数の試行と反応の最適化の結果でしかないのかも知れないなー、なんて思う。

「考える」といえば、現代美術では感性だけでは成立せず、そこにきちんとした文脈と説明が必要なようで、つまり、感じるだけではダメで考えることも必要になっているとのこと。

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現代音楽でも「再現性」が求められるので、それと似たような話かもしれない。

外泊時の荷物リストアップ理論

外泊時の荷物が、日帰りのそれに比べて多いのはなぜか。

夜を過ごすためのものと、翌朝に新たにするものが増えるからだ。では、どこまでなら増やさずに済むのだろうか。時間をどんどん限界線まで近づけていくと、幅のある境界が見えてくる。つまりこれは「相」の切れ目だ。

相が多いほど、荷物が増えるのである。 相の種類は、

  • 仕事
  • スポーツ
  • 買い物
  • 友人との食事
  • 協議

など、おおむねイベントに付随すると考えていいだろう。

家をしばらく開ける時は、相がいくつあり、それぞれに何が必要かをリストアップすると、抜け漏れが減らせるのではないか。ヘラクレイトス。減らせくれいとす。

人工知能学者の方々、この理論をロボットが外泊するとき荷物集めロジックの実装に使っていいですよ。

あと、夏休みの自由研究のヒントにしてもいいですよ。

[ 追記 ]

これを書いたあと、早速、iPhoneの充電ケーブルを忘れていたことに気づいた。持ってきたのはUSB-CケーブルとUSB-A用アダプタであり、刺さらないし、MacBookは持ってきてないので充電できない。いきなりのやらかしである。

この理論の穴が発見された。科学はこうやって発展していったのだろう。神はフィールドに宿る。

「あなたのために言っている」がクソという言説は本当だろうか。

今思い返すに、あの頃、ああでも言われなきゃ、他人の心情にまったく配慮できない傍迷惑なやつとして今も疎まれていたのではないか。もちろん、今が100%そうなっていないと言い張るつもりもないが。

「あなたのために」という言葉そのものは言ったこともないし、言われたこともないが、放置したい気持ちを抑えて、そのような意図を持った忠告をあえてしたことはある。そして、私もそうされてきたのだろうと思った。

私はバカなので「痛い目を見ないと気づかないでしょ」と放置されたところで、痛い目を見ても自力で気付けないことが多い。この世は理不尽だし、毎回、自分の側が悪いことばかりではないと思っている人間に、我が身を振り返って整合性のある論理を見つけることは難しい。私と同じように、論理的に自分を顧みることができない人は少なくないのではないだろうか。

関わりの濃い人間にかけてもらう言葉には、それなりに正当性のある客観的評価が含まれていることもあると思うのだ。関わりの薄い人間に疎まれたところで「こちらのことを何も知らんくせに」としかならない。

ただし、聞き入れるに値する忠告は、本当に自分のことを思ってくれている人からのものに限られる。「あなたのために、という体をとっているが、結局は自分のために言っていることは理解している。自分が働きやすくなりたいだけだ」と自認している人は信用できた。信用できなかった人は、どこかで考え方の筋道がおかしかった気がする。

まとめると、他人の忠告の中には一聴の価値があるものとないものが混ざっているけど、なんとかより分けて、自分のためになりそうな話は聞き入れたほうがいいんだろうね、と言う話。

自分がそれをできているとはいわないけども、聞こえの良い単純な類型化に流されすぎないようにしたい。

忠言耳に逆らう。

元気がなかったのでヤッターマンのオープニングテーマを聞いていた。自分の世代ではないのだけども。

シャウトまでいかない絶妙に抑えた唸り声と咆哮がクセになる。初っ端の盛り上がりを過ぎると、滑らかに演歌調の歌唱法にスライドするところもまた変化と技巧に富んでいて楽しい。

絵を見ていて思ったのが、コスチュームデザインが意外とタイムレスなデザインで、今見てもダサくない。メカや武器のギミックにケレンみがあり、設定といいキャラ付けといい、構成そのものがかなりアーティスティックである。敢えてやってる部分に関して、伝わる人にだけでも伝わればいい、という作りはウゴウゴルーガ的、とも言える。

ただ、中身をちゃんと見たことがないのでヤッターマンの出自や物語の主題、敵の目的などはわからない。多分、病が先にあり、その後に医者が誕生したように、悪が先にあり、正義がその後にあるのだろうと想像する。分かるか?泉。我々は本質的に手遅れなんだよ。先行して手を打つ方法が知りたければ荒巻と草薙に聞くといい。

悪は常に先行する。そういう意味でも、何かを常に革新していくのは、エナジー豊かな悪の側であり、また、何かを常に革新できるものは悪の側面を備えるとも言える。

成長への喜びは望ましいものではあるが、それを他人を打ちのめすことに向けると破滅が始まる。力は使い方である、とミヤコ先生もAKIRAの中でおっしゃっていた。

悪の影響が本体の1/10以下に収まっており、生命や財産を損害しない場合、それは世界への刺激になる、のかも知れない。いや、嘘。悪い奴は嫌いや。みんな仲良くしましょうよ。そのうち、お互いの主張で相容れないところが出てきて、対抗するか、離反するか、包摂するかを選ぶ時が来る。その時、相手からすれば私は悪側に位置づけられるのだ!逆もまた然り!宇宙空間に主従は存在せず、上下左右そのものが宇宙であり我々そのものなのだ!私はそんなこの世の法則を憎む!熱力学第二法則を憎む!

フワハハハハ!

論点のズレたリプがあった場合

  • 論理的な整合性や導出過程をまず正すことを目的とする人
  • 論理性ではなく、感情で対抗し、相手が負けを認めるか、納得することを目的とする人

がいて…でも感情も、個人的な経験則に基づくその人なりの論理と飛躍だったりして、違いは、

  • 主張がどれだけお互いの知識の中で整合するか、その集合のボリュームの大小
  • お互いの知識の外でも整合する集合のボリュームの大小

だとした場合、巨視的には同じ土台に立ってはいるんだけど、立ち位置が端と端、つまり距離が一定以上に離れると別物に見える。繋がってはいるけど。

光も波長によって色が変わって見えるけど、光という媒体自体は同じ。音も。

元素も電気的構成が変わると性質が変わるが、要素は同じ。

ということは。

意見対立があった場合、電子を外したり増やしたりして、共有構造を作ることが鍵となる。

しかし、あまりにお互いの電子数に隔たりがあると、バンドギャップを越えるのに多大なエネルギーが必要となる。

であれば、対立が著しい場合は何か触媒みたいなものを探すか、または、半減期のように長時間待つか、少しずつでも熱や別の物質を加え続けて変化をもたらすか。

んー、半端な知識で雑に構造主義的な思考をしても非生産的だ。、誤謬も多くなるし。でもなんか楽しい。

RADIO

RADIO

根拠とロジックをもって政治や行政組織を叩く人たちがいる。 ということは?市井には官僚や政治家よりも優秀な人たちがいるのかも知れない。

ところが、よしんば彼らが政策立案に携わったり組織運用の船頭を任されたとしても、やはり市井からは叩かれる気がしている。

「100%完璧な人などいない、そんなの当たり前だ」と鼻を鳴らして申される人々はとてもとても多い。がしかし、それを知っているのなら人を叩くのはなぜ?問題と人格を切り離して、純粋に問題点を議論するのではあればよいが、どうもそれを忘れがちなように感じる。穴を見る時、こちらも穴から見られているが、鏡を見て背中を見ず(水ダウ だーりんず小田の善戦にネット拍手 平然と存在しない言葉連呼「鬼殺し3年の気持ち」(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース)、といった様相だ。

知っていることと、それを体現できることには、理論と実践の隔たりがある。ダイエットをしたり、英語を身につけるのが難しいのと同じ。訓練と努力、そして失敗からの改善が必要っぽい。

それで。

美人投票よろしく、知名度や人気度を中心に政治家が選ばれ、ハイクラスの官僚と民間企業の偉い人たちは、どうしても高級取りを目指したり、税金に由来する大きな事業予算獲得に注力しがちで、本質的なことに取り組めてるのって、下手すると5割ぐらいなんじゃないだろうか、なんて妄想する。 (官僚の知り合いがいないので妄想でしかないけど…あと、本質的なこと、とは…?)

それは、それらをよしとする社会に通底する強力な価値観があるからではないのか。人が羨むような方向に、力ある人々は向かう。金であったり、名誉であったり、権力であったり、知能であったり…、真面目さであったり、正しさであったり…。

であるなら、今よしとされている価値観ではなく、別の価値観を敷衍しない限りは現状は変わらないのでは…?

ただ、いくらそういった、もっともらしい価値観が認められる世になったとしても、人を判断し、評価するのは難しい。人を100人集めて、定性的に、定量的に全員を評価して100人それぞれがどんな適性がどのくらいあるのかを弾き出すのって、できるものなんだろうか。それをやるための適切な問いを作ることがとても難しそうだ。

企業での採用だって、良い人を見抜くのは難しいし、恋愛関係にあった仲でも、結婚してから相手の見極めができていなかったと後悔する声もよく聞く。

いわんや、選挙前の政治家の評価をや。よく知っているつもりの人ですら、その中身を計るのは難しいのに、よく知らない人は…実績や経歴が参考情報として重要になってしまうのもやや仕方ない。

ただ、おそらく、今よりも1.5倍ぐらい多くの人が、身の回りの人や自分のいるコミュニティを良くしていこうと互いに働きかけていくなら、小さくても変化は積み上がっていって、25年単位で時代の変遷を感じていけるようになる…のかも知れない。ファクトフルネスに書かれていることみたいに。

まとめると、理想の政治が行われるには、私たち市民の、いや、私の価値観と行動が変わる必要があるけど、それらが変わったところで他人を正しく評価する行為自体がとても難しいので、構造に由来した限界がありそうだと思いました、という話。

それでも、世の中を変えていくには、まだ見ぬ聡明な人間の登場を期待するより、自分達ができることから始めていくしかないのでは…などと思ったり。