初めて樫本大進の Summer (Presto) を聞いた時、こんなに重く鋭い音が出せる人がいたのかと衝撃を受けた。また、緩急のアレンジのつけ方も非常にドラマチックで、私の好みに突き刺さった。
この前、その動画を見直したら、あんなに突き刺さった感動が、なくなってしまっていることに気づいて愕然とした。慣れてしまったのだ。認めたくないが、部分的に飽きた、とも言えるのだと思う。認めたくないが。
どうしたらいいんだ、こういうのは。本当はいつまでも、初期衝動を忘れたくないのに。
あ…!わかった…多分、もし、自分がバイオリンを練習してある程度のところへ行けば、より一層、すごさが分かって、さらには、アンサンブルをしてみるとベルリンフィルの凄さが分かって、あの感動に少しは近づけるかもしれない…そんな選択は出来ないけど…。
梅原大吾が言ってた「あの頃の楽しさに少しでも近づきたくてやってる」っていうの、そういうことなのかも知れない。
自分がコンピューターのことで感動したのって、なんだっけ…思い出してみよう。思い出して、そのときの感動に近づけるように努力出来るといいなあ…。
架空の嫌いなものをでっち上げて罵るとすっきりするのでは…?
きょうび、君が代のパンクロックバージョン作って歌ったからってウケると思ってんじゃねー!しょーもねーんだよ!バーカバーカ!なにがオリジナリティだ!死ねー!
つまりあれだ、自分の小さいとこをくくりだして、罵る。
銃の乱射事件の方が、各地で起きてる紛争より衝撃なのは、自分が行く可能性のある、安全圏だと思ってた場所が危険に侵されているという触覚と、慣れ。
文学もアートだと思った。絵画にも構図の妙があり、練られた伏線がある。文学も同じだ。
すち子アンド真也のディスカンベランボンの曲、サントリーウィスキーの恋は遠い日の花火でないのテーマだよね
人の気持ちが分からないのは私も一緒だ。人任せだし、社交辞令を真に受けて気を利かせなかったりする。私は組織を負う立場に、そういう機会があっても、付くべきじゃないし、管理運用が出来ない分、他のことで一生懸命に生きないとなあ。