チラウラヤーン3号

その辺のプログラマーのチラ裏です。

救いを求めて、近くのプロテスタント福音系の教会に行ってみたいと思い、調べていた。

パンとブドウジュースは洗礼を受けたもの以外は受け取ってはいけないらしい。また、洗礼は、定期的に礼拝に通ってないと提案されるものではないらしい。また、礼拝は日曜のみ、祈祷は水曜と、毎日やってる訳ではない。

躊躇した理由の中で大きなものが、献金と呼ばれる寄付制度だった。聖書では収入の1/10と決まっており、しかしながら、現実的ではないケースが多いので、3〜5%というところも多いそうだ。本質的には、「痛みを伴う額」が良いらしい。無くなっても痛くない額は意味がないようだ。分からなくはない。また、礼拝時にも少額、数百円〜数千円の賽銭のようなものもあるらしい。これは気持ち程度で良いようだ。

寺や神社でも、檀家や氏子になっていれば、施設維持のためにも信徒からの寄付が募られるので、これは別にキリスト教が金に卑しいという訳ではない。公共施設が税金で保守されるのと変わらないと思う。公共施設と違うのは、自分が使わなくても強制徴収されることはない、という点かも知れない。

ただ、礼拝にもこない、献金もしないとなれば、別帳会員という、幽霊部員扱いになるようだ。実際は経験してないので分からないが、顔が出しづらくなり、道で顔を合わせた時もバツが悪くなったりするのかも知れない。

礼拝が終われば、ささっと解散するものらしいが、近くの教会では、日によってコミュニティイベントがあるようだ。礼拝だけではコミュニティ参加は難しいようで、イベントがそのチャンスなのだろう。

イベントでは、グループワークがあり、そこでは聖書の輪読を行うようだ。自分の体験を話すこともあるようで、周りは聞き役に徹する、と。口を挟むことは違反とされている。もし話の途中で口を挟めば、その場は1対1の場になってしまうからとのこと。なるほど。

なるほど、協会はそういうものか、では寺はどうなんだろう。寺によっては、座禅や雲水、法話があるかも知れないし、神は超越者ではなく、仏とはいうものの、解脱した人間が生き方の見本だ。「赦し」というテーマとは少し違うが。

どちらが楽なのだろう。

いや、書物を読み合わせ、心を落ち着かせ、真理を探究すること自体が心の安寧を作るのであれば、読書会や、長期にわたるレポート作成をライフワークとすれば同じような効用が得られるのでは…また、真に自身のために金を使うことが出来るのではないか…いや、正直、協会に興味を持ったのは、もしかしてそこで将来の結婚相手を探すチャンスが潜んでいたりするのではないかという下衆な思惑もあったので、なにを考えてもどっちらけだ。

神よ、私は罪深い人間です。毎日、自分を慰めては、自己嫌悪に陥ります。

そこまで振り返って思ったのは、解脱は…忍耐にあるのかも知れない…食欲、性欲、名声欲、金欲、虚偽、怠惰と向き合い、我慢すること…。

仏法でも「救いは苦しみの中にある。苦しみから目を背けずに向き合うことだ」とある。

7つの大罪は同じことを言っていたのか?減量するボクサーのように、無駄を削ぎ落として、本来の感覚を取り戻すことが救いへの道なのか…?

でも、私は小さな人間です。大悟、小悟の後で、仏と言う名の慢心を槍で突き殺すだけの胆力がありませぬ。

死ぬときは、山で死にたい。

書き散らかしの、並木林。

Cosmic Girl

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